10年ほど前に「人間はだれでも表現者だ」と言ってみた。なんとなくそんな気がしたので、一応言ってみることにした。


僕自身は文章を書くのが好きだったし、自分自身のことを表現者だと思っていたけど、周りは当然のことながら、本を書いたり、作曲したりって表現者ばかりじゃなかった。だから特に自信があったわけじゃないんだけど、どんな形であるにせよ自分自身を表現しなくなれば人生つまらないて思ったから、「表現は人間の根源的欲求だ」って考えることにしてみた。なのでブログは普及する、Facebookは日本でも普及する、って早い時点で言ってのけた。


「人間はだれでも表現者」って言い切ってしまうと結構反論がきた。「お前はそうかもしんないけど、世の中お前みたいな目立ちがり屋ばかりじゃないんだよ」って会社の先輩から言われた。「ブログは暇つぶしの読み物。本当に価値ある情報を無料で出す人間なんていないよ」と何人かのブロガーからも反論を受けた。ブログは、受け身の国民性の日本人には普及しない、wikipediaは欧米では成立しても、日本では成立しない、などという意見もあった。


でもブログは普及したし、wikipediaは日本でも成立した。


人間の本来の姿を考えれば、未来を予測できる。そう実感した。


本来の人間のあるべき姿ってなんだろう。人間って本来、クリエイティブな動物なんじゃないかなって思う。なのでこの時点で、「人間はだれもがクリエイティブな存在である」って考えてみることにしたい。もちろん僕自身、文章表現をさておき、音楽的にも、デザイン的にも全然クリエイティブじゃない。10年前同様、僕の周りはクリエイターじゃない人のほうが多い。だけど、あえて「だれもがクリエイティブな存在である」という前のめり気味の考えを持ちたい。そうすることで、未来が読めるし、未来作りに関わっていけるような気がするからだ。


産業社会の中で、人間は表現することも、クリエイティブに生きることも抑圧されてきた。学力の偏差値は、学力以外の人間の質までをも測定できる万能のモノサシのように取り扱われ、いい大学、いい会社に入ればそれだけで人間としての質までもが上等であるように考える人もいる。1つのモノサシ以外のモノサシは軽視され、人間のクリエイティブな能力よりも、暗記する能力に重点が置かれた。


でもそういう産業社会から新しい価値観の社会へと移行する中で、もう一度、あらゆる人のクリエイティビティにチャンスが与えられるようになるんじゃないだろうか。


人間はだれでもがクリエイティブな存在である。そう信じて、サービスや制度を設計したほうがうまく行く時代がくるんじゃないだろうか。時代の変革期に置いて、変化が加速する時代において、前のめり気味に人間の可能性を信じる人だけが、新しい時代を切り開いていけるような気がする。