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 今ではTechWaveの夏の代表的イベントになったITの祭典「花テック」。今から2年前に浅草の老舗遊園地「花やしき」を借り切るというそのイベントの最初の打ち合わせのために、TechWaveの副編集長(当時)のマスキンこと増田真樹さんと、花やしきの事務所を最初に訪れたときのことだ。



 事務所の端の狭いソファーセットに腰をかけ、小さいテーブルの上に花やしきの地図を広げ会場の説明を花やしきの担当者から受けていた。マスキンの膝の上に座っていた赤ちゃんが突然地図に手を出して引っ張った。「あーあ、ごめんなさい!」・・・。



 僕自身は、マスキンが打ち合わせに子供を連れてくることには慣れていた。電話でマスキンと話をしていても、赤ちゃんが電話の番号ボタンを突然押して「ピッ」「ポッ」という音で話が中断されることもよくある話だった。でも花やしきの担当者は驚いたに違いない。打ち合わせに赤ちゃんを連れてくるなんて、なんて非常識な・・・。担当者がそんな風に考えたとしても不思議ではない。



 なぜマスキンは打ち合わせに赤ん坊を同席させるのか。もちろん最大の理由は、妻が病弱で赤ん坊を預けられないという事実である。でもそれと同様に「社会は育児中の母親や父親に対してもっと寛容であるべきだ!」という半ば怒りにも近い強い思いがマスキンにはあったのではないかと思う。

マルチな才能に恵まれながらも、襲いかかる困難





 音楽、プログラミング、執筆・・・。マスキンのマルチな才能は小さいころから突出していた。小学生のときからプログラミングに目覚め、雑誌のコンテストでマスキンの書いたブログラムが入賞したり、高校生のころにはIT系の雑誌に連載を持つようにもなっていた。またそうした活動を通じてIT業界に人脈が広がり、いろいろな仕事の依頼が寄せられるようになった。



 ネットバブルまっただ中の1998年には、金融系のネットサービスを立ち上げようという起業家の目に止まり立ち上げメンバーの一人として渡米し、インド人のエンジニアに混ざって2年ほど仕事をした経験もある。



 世界最先端の仕事。日本とシリコンバレーを行き来する生活。絵に描いたような有能なIT系ビジネスパーソンの日常だった。日米を行き来する間に、一時帰国中に知り合った女性と結婚。2001年には長男が誕生した。マスキンは幸福の絶頂にいた。



 ところが金融サービスの立ち上げも一段落して帰国したころから、妻の様子がおかしくなった。精神状態が不安定になり鬱の症状が続くこともあった。医者に見てもらったところ診断は「クモ膜下出血の可能性があるが、確証はない」というもの。妻を入院させ徹底的に検査してもらうことになったが、原因を究明できない日が続いた。0歳児を抱えたマスキンの仕事と家事の両立生活が始まった。



 とにかく赤ん坊の面倒を見なければならない。当時住んでいた三軒茶屋周辺で個人運営の託児所を見つけてきて、事情を話し、なんとか0歳の長男を預かってもらった。託児所への送迎の人も雇ってもらわなければならない。託児所への支払いは月に20万円を超えていた。



 このままこの生活を続けられないー。東京の家を引き払って、家族3人でマスキンの生まれ故郷である宇都宮に引っ越したのが2001年だった。



 妻の調子はまだ悪く、寝たきりの生活が続いた。子育ても家事もマスキンが一人でこなさなければならなかった。0歳児の育児は、24時間フルタイムの仕事だ。働きに出ることはもちろんできなかった。育児から開放されるのは、赤ん坊が寝た間だけ。家事をこなしながらなので、パソコンに向かえる時間は、1日に1,2時間もなかった。



 ソーシャルメディアで友人、知人がつながっている今とは異なり、宇都宮に住みながらできる仕事はほとんどない。オンラインの仕事もほとんどなかった。1年以内に貯金が底をつき、親や友人などからの借金でなんとか食いつないだ。



 それでも何かをしないといけない。立ち止まったら負け。マスキンはそう考え、1日に1時間ほどパソコンに向かえる時間を利用して、自分のブログにIT関連のニュースや解説記事を書き始めた。情報を発信し続けて、その情報がだれかの役に立つのなら、何かいいことが向こうからやってくる。必ずやってくる。マスキンはネット時代のこの「事実」を知っていた。しばらくすると見ず知らずの人から仕事依頼が寄せられ、企業向けのレポートなどを執筆することでわずかな収入になり始めた。



 保育園に預けることのできる年齢に息子が達してからは、仕事をできる時間が少し増えた。生活を楽にするためにもっと仕事を受けたかったが、「マスキンさん大変なんだから、十分に休んでください」と言われて仕事を打ち切られることもあった。親切なようだが、休めば収入がなくなる。どんなことをしてでも働かなければならないマスキンにとって、「休んで」という言葉は気休めにしか過ぎなかった。



 保育園からの帰りによちよち歩きの息子の手を引きながら夜空を見上げると、辛くて涙があふれた。これぞ絶望。もう先なんて考えられない。そう思ったとき、言葉を覚えたばかりの2歳の息子が言った。「ダダ(お父さんの意味)、だいじょうぶだよ。お星様があんなにニコニコしているよ」。保育園の絵本か何かに出てきたフレーズなのだろう。幼い息子のやさしい思いが心にしみた。



 その後、息子は大きくなるにつれて家事を手伝ってくれるようになった。また週に1度、夜も子供の世話係を頼むことで、東京に出ることも可能になった。



 相変わらず宇都宮で「主夫」をしながらだったが、2003年からのネット業界の好況に支えられ、仕事はどんどん増えていった。サイトのリニューアル、新規事業の立ち上げ、企画開発など、持って生まれた器用さで数多くのプロジェクトに関わった。働いて働いて働きまくった。やがて借金もすべて返済、やっと一息つけるようになった。



過労でダウン、出産で複雑骨折





 2006年、逆境の中、ここまで走り続けた自分へのご褒美のつもりで2週間の休暇を取った。時間ができたので人間ドックも受診することにした。



 なんの気なしに受けた人間ドックだったが、その結果、マスキン自身が病に侵されていることが発覚した。身体表現性障害。痛くないの痛いと感じてしまう精神性の病気だ。医師からは、仕事をやめて休息を取るように命じられた。



 それから2年半。家事と育児だけの生活が始まった。幸いなことに前職のネットエイジの社会保険で家賃と食事代だけはなんとか賄えた。



 長男が小学生になり家事もいくぶん楽になった。マスキンが仕事をしなくなったことで妻も精神的ストレスが軽減されたのだろうか。妻も家事を手伝ってくれるようになった。



 一方で療養手当も期限が切れた。休職手当は、日数が2日足りないと理由で支給されなかった。以前のような激務にはつけない。2008年には友人の紹介で、自宅でできる某ポータルのニュースの編集の仕事を始めることにした。都内に出て取材などの仕事も少しずつ始めた。



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 僕とマスキンが出会ったのはこのころだった。某新聞から仕事を受けたフリーランスのライターとしてマスキンが僕を前職の時事通信社に訪ねてきたのだった。2009年の秋ごろだったと思う。そのとき僕は既に独立を決意しTechWaveを立ち上げることを考えていたので、直感的にマスキンに手伝ってもらおうかと思ったことを覚えている。具体的な話はしなかったのだが、2010年の年明けにはマスキンから年賀状が届いた。マスキンのほうにも何か思うところがあったのかもしれない。



 2010年1月15日にTechWaveをオカッパンこと本田正浩さんと立ち上げ、しばらくしてオカッパンとマスキンの3人で会合を持った。「よかったら一緒にやっていきましょう」。



 マスキンがTechWaveで本格稼働したのは、それからしばらく後だった。その後、マスキンに第2子である長女が誕生した。



 ところがその長女の出産の際に、妻が腰の骨を複雑骨折したことが明らかになった。生まれたばかりの赤ちゃんを立って抱っこすることもできない状態。またしても育児はすべてマスキンの仕事となった。赤ん坊を背中に背負ったままパソコンに向かった。



 そして2011年3月に震災。マスコミは最大の被災地である東北に焦点を当てたが、宇都宮も実はかなりの被害を受けていた。マスキンの住んでいたマンションも居住不可能になり、家族4人でマスキンの実家の2階に避難。実家での居候生活はまだ続いている。



テクノロジー活用すれば地方で子供中心の生活ができるはず





 これだけ困難が続くのに、なぜマスキンは前向きに生きていけるのだろうか。恐らくマスキンの強さの根底には子供への愛情があるのだと思う。子供を愛するからこそ、子供から愛情をいっぱいもらっているからこそ、マスキンは次々と訪れる試練にめげることなく前進できるのではないかと思う。



 「逆境を乗り越えるためにテクノロジーを使う。そうしている人は実際にいると思うんですが、僕はそういうことだけじゃないんです。僕は生活を子供中心にしたいんです。そのためにテクノロジーを使うべきだと思っているんです」とマスキンは言う。



 シリコンバレー時代の同僚たちのほとんどは、家族を大事にしていた。生活の中心は家族だった。テレカンファレンスは当たり前。仕事のために、家族や生活の場所を犠牲にするという考えはなかった。



 インターネットを使えば、好きな場所に住んで自分らしく生活できるようになるー。そんな風に言われたものだが、実際にはそんな風にはなっていない。日本では東京へより一極集中しているが現状。



 宇都宮のような地方都市は、自然も多く、子供にとっての遊び場に事欠かない。ネットを使えば、地方都市に住みながら大きな仕事もできるはずだし、そうしなければならない。



 「人生のリセットのタイミングだったので、そう考えて宇都宮に戻ってきたし、今でも半ば意固地になりながらチャレンジを続けているんです」と語る。



 子供中心の生活のために、世の中の常識とかいろいろなものを打破していきたい。そして子供たちがテクノロジーを身につけ、世界で通用するモノを作れるようにしたい。東京だけではなく日本全国にそうした子供たちを増やしたい。その目標のために、たとえ逆境であっても、生活が苦しくても、メディア事業が儲からなくても、マスキンは頑なに前進し続けようとしているのだと思う。



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蛇足:オレはこう思う



 本人が、こんな話をすることはまずない。マスキンがこんな苦労しながら、仕事を続けていることを知っている人はほとんどいない。マスキンが話するのは、「IT業界を支援したい」ということばかり。自分の苦労を全然アピールしない。



 でも僕は、マスキンの最大のすばらしさとは、プログラミングも、執筆も、音楽もできて、イベントを開催するのが上手で、起業体験もある、というようなマスキンのスーパーマンぶりにあるのではなく、子供に対する愛情でどんな逆境にも立ち向かっていける強さにこそあるのだと思う。



 同じ編集仲間のことを記事にするのは変かもしれないけど、そのことを知ってもらいたいと思って記事にした。



 2013年1月15日付けでTechWave編集長の座をマスキンに譲ります。ぜひこれからもマスキンを応援してあげてください。



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