20世紀は金融が経済の「血液」の時代だった。21世紀はデータが経済の「血液」の時代になるといわれている。

金融において、個人の預金を守ることは大事だが、銀行が集めた預金を有効活用することのほうが社会にとってはより重要だ。同様に個人のデータを守ることは大事だが、そのデータを有効活用することが、もっと大事になると言われている。

▶間接業務、バックオフィスがなくなる世界

IoT機器やウエアラブルコンピューター、各種センサーがどんどん安価になり広く普及し、ありとあらゆるデータが集まるようになる時代。そしてそれらのデータが経済の「血液」となり、広く流通する時代。そのような時代になれば、社会はどのように変化するのだろうか。

東京大学の橋田浩一教授によると、生産と消費のマッチングが自動化されるようになるという。データを収集することで消費者のニーズがより確実に把握されるようになり、ニーズに合った商品(サービスも含む)が開発される。商品を使用した消費者の感想や評価も正確に把握されるようになり、そのフィードバックをもとに商品が改良されるようになる。ニーズ、製造、消費、改良のループが高速で自動回転するようになるので、製品力も増す。

橋田教授はまた「生産と消費のマッチングが自動化されるということは、間接業務がなくなるということです。間接業務がなくなるということは、バックオフィスがなくなるということ。大きな組織が要らなくなる、ということです。プロジェクトベースで人が集まり、プロジェクトが終われば解散する。そんな仕事の形態になるでしょうね」と指摘する。

カーネギーメロン大学のトム・ミッチェル教授も同意見だ。自分のライフスタイルに合わせて、パートタイムの仕事を幾つも、やりくりする人が増えるという。(関連記事)

そして自分の望むライフスタイルを叶えるために、転職、学習を繰り返すようになるという。

また経済や社会の状況がリアルタイムで計測できるようにもなる。政府の政策の結果も、すぐに分かるようになる。政治の透明性が増すわけだ。

一方で、大量の医療、健康データがリアルタイムで集計されるようになる。新しい知見が次々と生まれ、これまでにない速度で医療が進化するとも予測されている。


▶課題はセキュリティに対する「マインド」

生活や業務を大きく進化させる可能性のあるデータ経済社会。しかしそうした社会を実現するためには、大きな壁を超えなければならない。プライバシー侵害やデータ漏えいなどといったセキュリティ問題の壁だ。経済産業省や総務省、それに民間企業などもデータを「経済の血液」にすべく取り組みを始めているが、異なる企業、組織間でデータを交換、共有する仕組み作りは簡単ではないようだ。

企業間のデータ交換、共有を目指すデータ・エクスチェンジ・コンソーシアムを運営する株式会社デジタルインテリジェンスによると、昨年度から108社の参加を得て研究や実験が始まっているが、今のところデータを提供する企業が少ないようだ。やはりセキュリティ問題の壁は相当高そうだ。

「いえ、決してできない環境ではないんですよ」と同社の横山隆治氏は言う。「でもリスクとメリットを提示して経営層の許可をもらうというプロセスが、そもそも確立していないんです」。技術よりも法律よりも、まず「マインドの問題だと思います」。

確かにメリットはまだ分かりづらい。データを共有することで生産と消費が結びつき、製品力が上がると言われても、それが自社の売り上げにどれだけつながるのか。具体的な数字としては見えてこない。一方で、個人情報を漏えいさせてしまえば、ブランドを大きく傷つける可能性がある。企業の存続にかかわるようなリスクをはらんでいる。

同コンソーシアムは2014年度から活動を開始。初年度は実務上の課題の洗い出しを行い、2年目の今年は一部で実証実験を始めている。これまでに浮かび上がってきた課題に挑戦し、2017年度には、参加企業300社以上のデータエクスチェンジ(データ取引所)を実現させたいという。そのときまでになんとかしてこの「マインド」の課題をクリアしなければならない。


▶データを個人が持つ

こうした課題をクリアする方法は、同コンソーシアムを含め、当然ながらいろいろなところで研究が続けられている。技術的な解決策も可能かもしれないし、制度的な解決策にも期待されている。

そんな中でも僕が個人的に期待しているのが、パーソナル・データ・ストア(PDS)と呼ばれる概念だ。個人情報や購買履歴、SNSの投稿履歴など、ありとあらゆるデータを、個人側でも管理するという考え方だ。

この概念自体を耳にしたのはずいぶん前になるが、最近米国のプライバシー問題の権威、マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボのAlex "Sandy" Pentland教授の講演の動画を見た際に、同教授が動画の中で熱心にPDSを提唱していた。いまだに議論されている。ということは、技術的に十分に実現可能な領域にまで来ているのかもしれない。そう思った。

そこで日本でPDS研究の第一人者、東京大学の橋田浩一教授に、PDSの概念がどの程度実現可能なところまできているのかを聞いてみた。橋田教授が研究しているのはPDSの中でも特に「分散PDS」と呼ばれるもので、個人が特定の事業者に依存せずに運用できるPDSだ。同教授によると、既存の暗号やDRM等の技術を拡張、改良することで分散PDSは比較的簡単に実装可能という。実際すでに、橋田教授が考案した分散PDSの一種であるPLR(個人生活録)は山梨県の3つの介護施設で150人の高齢者の介護記録を作成するアプリの基盤として使われている。

DRMとはデジタル著作権管理技術のことで、映画や音楽、電子書籍などといったコンテンツの不正複製や流通を防止する技術だ。AmazonのKindleの電子書籍やAppleのiTunesの楽曲などはDRMで不正使用できないようになっている。

もともとはコンテンツ保有者の権利を守るために作られた技術。なので、それを一般消費者の情報を守るために機能追加しなければならないが、それほど難しい話ではないという。

個人用にDRMを改良することで、例えば写真を投稿するときに、だれがその写真を見ることができるのか、共有、加工、ダウンロードできるのかを細かく設定できるようになるという。最初から写真を暗号化しておけば、暗号鍵を渡すアプリを限定することで、一度ネット上で共有した写真を全部削除することも、その写真の表示等を制限することもできる。

消費者は手元に大量のデータを保有しておく必要があるわけだが、GoogleドライブやDropbox等の基本無料のクラウドに暗号化したデータを保有すればコストはほとんどかからずセキュリティも高い。

そして消費者は自分のデータを自分が指定する事業者に開示。その見返りに事業者は、消費者に合った製品やサービスを提供してくれる。

消費者にとっては、自分のデータをだれがどのように利用しているのかを正確に把握できるし、嫌ならいつでも先方のデータベースの中にある自分のデータを利用できなくすることも可能。

一方で事業者にとってみれば、消費者のデータを集めるためにコストをかける必要もないし、情報漏えいがないように膨大なセキュリティコストをかける必要もなくなるわけだ。


▶スマートディスクロージャー

ではPDSは、今後どのように普及していくのだろうか。PDSの必要性を消費者に啓蒙していく必要があるのだろうか。

「啓蒙する必要もないと思います。便利なサービスを使うために自分でデータを管理しようという流れに自然になっていくように思います。ただそのためには便利なアプリが必要でしょうね」と橋田教授は指摘する。

どのようなアプリなのだろう。「例えばワンパスワード、シングルサインオンのような機能を持ったアプリで、そこには住所、氏名、生年月日、顔写真、学歴、職歴が記載されていて、そのうちどの部分をだれと共有する、ということを簡単に設定できるようなものがあればいいですね」。FacebookやTwitter、MixiなどのSNSに1つのアプリから投稿できるHootSuitと呼ばれるアプリが以前、流行ったことがあるが、同様のアプリにこれらの機能を搭載するようなイメージだという。

一方で、企業や組織がこれまでに集めたデータを個人に返還、もしくは共有する必要がある。

「(データ経済社会に向けての)制度上のボトルネットってあまりなくて、政府にやっていただきたいことはほぼ1つ。スマートディスクロージャーの義務化です」と橋田教授は言う。

同教授によると「スマートディスクロージャー」とは、企業が保有している消費者の個人データを電子的に相互変換できる形で個人に返すこと。

今でもTポイントカードの利用履歴は、Tポイントのサイトにアクセスすれば確認できるが、確認できるのはいつ、どこで何ポイントを獲得したかというデータだけで、何をいくらで買ったかという購買データは含まれない。

購買データは、マーケッターにとって喉から手が出るほど欲しいデータだが、もともとは個人に属するはずであるデータ。その購買データを、データ形式を整え電子的に相互変換できるような形で、個人に返してもらう。その仕組をスマートディスクロージャーと呼ぶようだ。「ディスクロージャー」は公開の意味。「スマート」と形容されるのは、「電子的に変換可能な形式での」という意味なのだろう。

スマートディスクロージャーが義務化され、消費者一人ひとりが自分のデータをスマートフォンなどで受け取って暗号化し、クラウド上のストレージに保管する。そのデータをお気に入りの事業者に提供し、よりパーソナライズされた製品やサービスの提供を受ける。それが分散PDSに基づくデータ経済社会の目指す形だ。


▶きっかけは医療制度改革

橋田教授によると、データを個人が管理する分散PDSは、早ければあと3年から5年で日本で主流になる可能性があるという。同教授は、医療制度改革がきっかけになると見る。「病床と病院の急性期、回復期、療養期という機能分類があと2,3年で終わります。そうなると、急性期、回復期、療養期の病院プラス診療所でデータを共有しないと経営が成り立たなくなります。そういう時代になりつつあります。それが関係者のみなさんの身にしみてくるのが、あと2,3年後だと思います」。

「大事なのは、個人の側でデータを持つことが簡単かつ安全にできることを知らしめることだと思います。新聞とかで分散PDSが普通に取り上げられるようになれば、その手があったかということで取り組む企業が出てくると思います」「そうした企業が出てくると、あとはドミノ倒し。一気に普及すると思います」。

「幾つものPDSが並行して出てくるでしょうね。顧客サービスの一貫としてPDSを提供する大手企業も出てくるでしょうし、政府の実証実験のようなものも出てくるでしょう。無料のSNSアプリのようなものでPDS機能を持つものも出てくるでしょう。医療データを取り扱うPDSアプリ、購買データを取り扱うPDSアプリ、名簿管理のPDSアプリ。いろいろなものが出てくる。そうした幾つもの異なる試みがシナジーを生んで、時代がPDSの方向に進んでいくのだと思います」。


▶Apple、リクルートはどう動く?

PDS時代に向けて、橋田教授が最も注目する企業はAppleだという。

AppleのiPhoneやiPadは医療関係の標準デバイスになりつつある。ハードの製造を多数のメーカーに任せているGoogleのAndroidとは異なり、Appleがハードの製造まで手がけるため規格が統一されていて、周辺機器を接続しやすいからだ。

このためヘルスケアの現場で多くのiPhoneやiPadが使われるようになっているのだが、Appleは、そうした個人データを集めて広告やマーケティングに使うことはない、と明言している。広告収入が主な財源のGoogleと違ってAppleは機器が売れるだけで十分な収益になるからだ。

PDSは、個人情報を企業が保有するのではなく個人が保有管理すべしというAppleの方針と見事に合致する。今のところAppleがPDSサービスを始めたり、他社のPDSと連携するという報道はないが、Appleがそうした動きに出てもなんら違和感はない。

もしAppleがPDS推進に動けば、個人データの蓄積を競争力の源泉とする企業にとっては大打撃になるだろう。そして顧客情報を最も蓄積しているのがAppleのライバル、Googleである。

一方、国内で個人データを今後最も積極的に活用しようと考えている企業はリクルートである。リクルートは今年4月に人工知能研究所を新設し、同社が持つ多種多様なユーザーデータを人工知能で解析し、これまでとは比較にならない精度のマッチングやレコメンデーションを可能にしようとしている。そのために内外の人工知能研究者を大量に採用し始めたし、人工知能研究の世界的権威と言われる研究者5人とアドバイザー契約などの関係を結んだ。

リクルートに協力することになった5人の世界的権威の一人がMITメディアラボのPentland教授。米国でのPDSの最大の推進者だ。当然、同教授はリクルートにPDSに乗り出すようアドバイスすることだろう。

Apple、リクルートがどう動くのか、今はまだ分からない。だがこの2社が動けば、時代は大きくPDSに傾く可能性がある。

PDSが普及すれば、消費者に愛される企業は膨大な消費者データをベースにした企業経営が可能になる。PDSを使えば圧倒的に豊かな個人データを集めることができる。良質のデータがあって初めて有効な分析が可能になるということを、多くの企業が理解するようになるだろう。「マインド」が変わるときがくるわけだ。「いろんな人がいろんな新しいビジネスを思いつくとおもいます。その結果、日本の国力がすごく強くなるはず」と橋田教授は指摘する。

金融をベースにした経済から、データをベースにした経済へ。もう間もなくわれわれは、時代の潮目の変化を目の当たりにするかもしれない。

【お知らせ】 この記事はBLOGOSメルマガ「湯川鶴章のITの次に見える未来」の無料公開分の記事です。

http://synapse.am/contents/monthly/tsuruaki" target="_blank">オンラインサロンもやってます。オンラインサロンでは、僕の取材メモをリアルタイムで公開しています。



少人数勉強会TheWave湯川塾29期事前告知しました。テーマは「データ経済社会」。